リラの歴史 -Part I-

2002年に廃止される運命のイタリア通貨”リラ”に関する記事の翻 訳を、今週と8月24日の2回に分けてお送りします。 (勝手ながら8月17日発行分は休刊とさせて頂きます。)

(この記事は8月4日のイタリアの新聞コリエレ・デッラ・セーラに掲 載されたものです)

−リラの歴史− 7月27日木曜日、イタリア銀行の造幣機は、最後の5000リラ札の 印刷を終了した。その他の紙幣は、最近では大した印刷量もなく、既に それらの印刷を終えている。一方、イタリア国営造幣局では、50・1 00・200・500リラの製造を99年末に、また1000リラコイ ンの製造を98年末に停止している。

ということは、我が国の通貨生産は、もうユーロに向かっているという ことになる。イタリアの”リラ”は、残すところあと僅かの期間、財布 の中に存在し、2002年の初頭に、その長い歴史を終える。

<硬貨の時代> 約2世紀前まで流通していた唯一の通貨は、金や銀といった貴金属で造 られた硬貨のみであった。紙の通貨(紙幣)は空想の世界のものだった である。通貨というものは、理論的には物々交換に由来するもので、硬 貨に刻印された顔やデザインといったものは、とある一定量の貴金属 (金、銀)を含有することを保証するものであった。

だから、含有する貴金属の重量を数えたのであって、コインの枚数を数 えたというわけではなかった。まったく不便きわまりない。それに、例 えば、新たに硬貨を製造する際に、金や銀が足らなかったらどうなるの か。にも関わらず、何千年にわたって”硬貨”を代用するものは存在し ていなかったのである。

<シャルルマーニュ大帝のリッブラ(LIBBRA)> 780年から790年頃まで、リッブラ(LIBBRA)は重さの単位だっ た。が、シャルルマーニュ大帝時代の記録には、これが他のものを差す 言葉として記録されている。それは、全帝国内に1リッブラ(約300 g)の銀から240のコインを鋳造した”デナーロ(DENARO)”と呼 ばれる新しい硬貨が発行されたからである。

リッブラ(LIBBRA)、リブラ(LIBRA)、リラ(LIRA)・・・誰が決め たというわけでもなく、このリッブラという言葉は、重さの単位だけで はなく”計算の単位”としての新しい意味をもつようになっていった。 240デナーロというよりは、1リラと呼んだ方が便利だったし、24 1デナーロと言ったり書いたりするよりは、1リラと1デナーロとした 方が便利だったからである。

しかし、通貨としての”リラ”は実在しないものだった。改定前の古い 通貨ソルド(SOLDO)も存在しないお化け硬貨にも関わらず、12デナ ーロに相当するものになった。要するに、12デナーロが1ソルドに相 当し、20ソルドが1リラに相当することになったのである。昔のポン ドとシリングとペンスのように。

だから、ポンドはリラ・ポンドと呼ぶことも出来るのである。実際、1 971年までは、イギリスではシャルルマーニュ時代の法則に従って通 貨計算をしていた。フランスでも、革命前まではリーブル貨幣を20と 12という数で割ったものを使っていた。

ということは、”リラ”はイタリアだけのものではなく、12世紀もに 渡って使われた国際通貨単位であって、そして今だ消滅してはいないの である。イギリスのポンドがユーロに併合された後、もしされればだが、 トルコ、キプロス、マルタ、イスラエルとに”リラ”という通貨単位は 残るのだから。

<ミラノ・リラ?もしくは、ヴェローナ・リラ?> ところで、シャルルマーニュの時代、240デナーロは1リラであった。 帝国が崩壊すると、分割した国々がそれぞれの通貨の鋳造を始める。が、 銀の含有量はシャルル時代のそれに比べると低く、それぞれの通貨でま ちまちであった。

パヴィアの、ミラノの、ヴェローナの、またルッカのと言った具合に、 ”リラ”が複数存在することになった。240デナーロは常に1リラで はあったが、それぞれの国の240デナーロが、それぞれの国での1リ ラに相当することになったのである。それも、それぞれが別の価値で、 それぞれの抽象的な”リラ”で。そして、多種の金貨や銀貨は、小さい 商取引から大きな銀行取引といった場面で、議論を醸し出す原因ともな っていた。

長い間、通貨統合実現の試みは挫折を繰り返していたが、(それでも試み はあったのだが)その価値は単一通貨にするにはあまりに大きいものだ った。だが、通貨価値は徐々に下がり、1700年代中旬から、イタリ アの一部で、ついに”リラ”という通貨を手にすることが出来るように なる。

<それでは、紙幣は?> 1700年代の中旬、正確に言えば1746年に、サヴォイア家のカリ オ・エマヌエーレ3世に統治された王国で、最初のリラの紙幣が誕生す る。実質的には何の価値も持たない”紙”が、この紙切れを金に交換で きるという約束手形として発行されたのである。

これは、紙と金というショッキングな物々交換を納得させる為の、1つ の良い方法ではあった。約束を守るということはつねに難しいことでは ある。しかし、現金の必要性はどんどん増え、硬貨造幣の為に金や銀の 在庫量に左右されるわけにはいかないという事情があった。

緊急事態の金との交換手段として生まれた紙の”金”は、それぞれの国 がその担保の法的文書を確定していくにしたがって、徐々に民衆に受け 入れられるものになっていった。が、長く困難な道のりではあった。

・・・次回へ続く