☆ DUOMO(大聖堂)

DUOMO(ドゥオーモ)

ミラノのシンボルはMadonnina(マドンニーナ)。これはイタリア語で”小さな聖母”というイミ。

Madonna(マドンナ)は”聖母”というイミ。単語の最後が”−ina”とか”−ino”で終わると”小さな−”というイミになる。

このMadonnina。小さく見えるからMadonninaだけど、実際の身長は4m17cmもある、巨大なマドンナの像。夜になるとライトアップされて、遠くから金色に輝く小さなマドンナを拝む事が出来る。だから、Madonninaってわけ。

 

さて、このMadonninaが輝くミラノの大聖堂DUOMO(ドゥオーモ)の建設が始まったのは、1386年。

当時ミラノを治めていたジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティという人が建設を命令して、完成するまでに500年以上かかって建てられた、イタリアンゴシック最高峰の建物と言われている。

このガレアッツォさん、建設を”命令した”というとちょっと威圧的だけど、実はちゃんと市民投票を行ったという話も残っている。

現在DUOMOの建っている場所には、その昔、3つの教会が立っていた。夏用の広い教会と、冬用の狭い教会と、洗礼堂。これらの3つを取り壊して、現在の大聖堂の基礎工事を行ったのは、当時のミラノ市民達。それもボランティアで参加したんだそうだ。ちなみに、なぜ、夏用、冬用と教会が分かれていたかというと、冬、狭いところに人がたくさんいたら、おしくらまんじゅう状態で暖まれるでしょ。当時、暖房設備はまだまだ発達していなかったから、お金を掛けずに暖を取るために、冬用の教会はわざと狭く作ったんだそう。

で、話は市民参加型のDUOMO建設へ戻る。現在でもミラノのDUOMOは人を詰めると四万人の人が入ると言われているが、これは、建設が始まった当時のミラノの街の人口が4万人だったからだ考えられている。

ミラノ市民達が皆で一緒に集まれる、祈れる場所を・・・というのがガレアッツォさんの意向だったとか。でも、ヴィスコンティの権威の象徴となる程の大きな大聖堂を・・・とも考えられている。

現に、ジャン・ガレアッツォがミラノという国を治めていた時代が、ヴィスコンティ家支配の時代の中で、最もミラノが栄えた時代。このまま放って置いたら、イタリア全土がヴィスコンティによって支配されてしまうのでは、と恐れられていた人でもある。当時のフランス国王の甥という立場を利用し、フランスの後ろ盾もあっただろう。それと、。戦争をせずに、領土をお金で買収したりして、領土拡大に励んでいたのがこのガレアッツォ。残念ながらイタリア統一は果たせなかった。

世界で3番目に広いミラノのDUOMO。総床面積は約11700u。

この当時のイタリア半島の強大な国というと、VENEZIA、FIRENZE、ROMA、NAPOLI、そしてMILANO。まだこの当時はイタリアっていう国は存在していなかった。イタリア半島はバラバラの小さな国々に分かれていた。で、この14世紀当時の5大国を比べてみると、ミラノには地理的に大きな欠点がある。

それは、街に川が流れていないってこと。

VANEZIAは海の上の街。NAPOLIも港町。この二つの街は、海上貿易で財を成したと言える。

FIRENZEにはアルノ川が、ROMAにはティベレ川がそれぞれ流れていて、これらの川を下って行くと地中海へと辿りつく。川はモノを運ぶ他に、色々なモノを流すのにも利用されていた。例えば汚水とか・・・

ミラノの街には、川が流れていない。川の無いところに発展したこの街は、13世紀のヴィスコンティ家支配の時代を迎え、この地理的欠点を克服する計画を立てる。

川が無いなら、川を作ってしまえ!!運河

ということで、作られた川は”運河”となる。このミラノ近辺に整備された運河は、北はスイスとの国境にある湖、マッジョーレ湖。南へ下りパヴィアの街を流れるティチーノ川へとつながっている。このティチーノ川を下れば、アドリア海へと辿りつくことが出来る。

さて、この整備された川を使って、ミラノの商人たちは色々なモノを運ぶことが出来るようになった。

北ヨーロッパの毛織物や、ミラノ産の武器、毛織物。こういったものがミラノを越え、アドリア海に浮かぶヴェネツィアまで運ばれるようになる。

運河はモノを運ぶ為だけではなく、人も運んでいた。ヴィスコンティ家の後にミラノの当主となったスフォルツァ家に、この運河を上がってお輿入れしてきたのは、フェッラーラのエステ家のベアトリーチェ デステ。

大聖堂の大理石は、この人の手によって造られた”川”を利用して、マッジョーレ湖畔にあるカンドレアという採石場から運ばれてきた。この採石場とミラノと街は、約60km離れている。今でこそ、60kmの距離なら車で1時間というところだけど、車の無かった時代、重たい大理石を効率良く運ぶ為に水の力を大いに利用したと言える。

場合によっては特例も出して、大理石の運搬を奨励したりしている。この特例というのは、大聖堂建築の為の大理石を運ぶ船には、通行税を免除したり、割引したりしたというもの。ミラノの商人たちは、この特例を利用して、大理石以外の物も運搬していたに違いない。

現在も大聖堂の裏手にあるサントステファノ教会の脇には、ラゲットという名の通りがある。ラゲットとは”池”というイミのイタリア語。ここに船着場があって、ここで下された大理石が、一つづつ、一つづつ、加工を加えられ、積み重ねられて今ある大聖堂を形成することとなった。

一口に500年というのは簡単だけど、その間、ミラノ市民達は様々な外国によって支配を受ける事になる。スフォルツァ家が1499年にフランスとの戦争に負けた後、ヨーロッパの大国である、フランス、スペイン、オーストリアがこのミラノの街、いや国を支配することになる、

どんな外国人に支配されても、一つづつ、大理石を積み重ね、積み重ね・・・それで、やっと出来たこのミラノの大聖堂。ミラノ人の誇りとも言える。